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霧島岑神社

(きりしまみね じんじゃ)

霧島岑神社は、宮崎県小林市細野に位置する神社で、延喜式内社の論社として知られています。旧社格は県社で、霧島山の神々を祀る神社の一つとして、その歴史的背景と信仰において重要な役割を果たしています。

祭神

霧島岑神社の祭神は以下の6柱の神々です:

これらの神々は、皇室の祖先である日向三代として称され、古来より重要な神格を持つ存在とされています。

神社の由緒

創建と歴史

霧島岑神社の創建年代は明確には分かっていませんが、6世紀中期頃に創建されたと伝えられています。この神社は、天孫降臨から日向三代に関連する神社として重要視されています。

文献に見る霧島岑神社

霧島岑神社は国史の中でも早い時期から記録に現れます。『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条には、「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社」と記され、従五位上を授けられたことが記録されています。また、『日本三代実録』には、天安2年(858年)に従四位下に叙せられたことが記されています。

延喜式神名帳の記載

延喜式神名帳に記載されている「日向国諸県郡霧嶋神社」を、霧島岑神社と比定する説もあります。このため、霧島岑神社は式内社論社の一つとされています。

神社の変遷

霧島岑神社は当初、宮崎県西諸県郡高原町の「瀬多尾(せたお)」と呼ばれる地点に鎮座していました。そのため、瀬多尾権現とも称され、別当寺は瀬多尾寺と呼ばれていました。しかし、天慶・天暦の頃、性空上人が参籠し、霧島六社権現と称されるようになりました。

火山活動による影響

霧島岑神社は度重なる火山噴火により、幾度となくその姿を変えました。天永3年(1112年)の韓国岳噴火や仁安2年(1167年)の大幡山噴火により神殿は焼失しましたが、その都度再建されました。しかし、文暦元年(1234年)の御鉢の噴火では、社殿が焼失し、天の井も枯渇したため、社殿は霧辺王子神社の辺に遷座されました。その後も度重なる噴火による影響で、神社の位置は何度も変わりました。

近代における変遷

享保元年(1716年)には新燃岳が噴火し、再び社殿が焼失しました。その後、夷守岳中腹に再建され、明治初頭まで鎮座されましたが、最終的には現在の場所に遷座されました。明治5年(1872年)には県社に列せられ、翌年には夷守神社を合祀しました。

文化財

霧島岑神社には、小林市指定の有形文化財である霧島岑御神像六躰があり、その文化的価値が認められています。

霧島六社権現としての地位

霧島岑神社は、かつて霧島六社権現の中心として信仰を集めました。『三国名勝図会』には「霧島大権現宮」と記されており、霧島六社の本宮であったことが確認されています。しかし、明治時代の政治的背景から、霧島神宮が霧島六社権現の中心として位置づけられることとなりました。

島津家との関わり

霧島岑神社は、古来より伊東氏や北原氏など、この地を治めた諸氏の厚い崇敬を受けていました。また、島津義弘も飯野城を居城としていた際に霧島岑神社を深く信仰し、毎年米100俵を寄進するなど、その信仰心の篤さが伝えられています。

Information

名称
霧島岑神社
(きりしまみね じんじゃ)

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