飫肥城は、宮崎県日南市飫肥に位置する日本の城で、かつては江戸時代に伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄しました。飫肥城は、シラス台地という地形を活かした平山城であり、幾つもの曲輪を配置した群郭式の構造を持っています。また、伊東四十八城の一つとしても知られています。
飫肥城の歴史は南北朝時代にまで遡ります。この城は、酒谷川河口の油津と河川舟運で結ばれた要地に築かれ、飫肥杉という良材の積み出しの拠点としても知られていました。最初に飫肥城を築いたのは土持氏であり、この城は「飫肥院」とも呼ばれていました。
その後、室町時代末期の1458年、薩摩国の戦国大名であった島津氏が飫肥城に注目し、日向北部で勢力を広げていた伊東氏の南下に備えるため、島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させました。しかし、戦国時代初期に伊東氏がこの地域に進出し、激しい戦いが繰り広げられることとなります。
1484年、伊東氏が飫肥城を攻め、伊東祐国が戦死したことで島津氏は城主の交代を余儀なくされましたが、それでも伊東氏による攻撃は続きます。最終的に1562年に伊東氏が飫肥城を奪取し、伊東祐兵にこの地を与えました。
しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いで敗北すると、再び島津氏が勢力を拡大し、飫肥城を奪い返しました。この100年以上にわたる伊東氏と島津氏の争いは、九州の歴史における一大争奪戦として知られています。
江戸時代には、飫肥城は伊東氏の居城として整備が進められました。特に、1691年には堀と石垣の修復が完了し、1693年には御殿が完成しました。この時期の工事では、城の本丸が現在の位置に移され、さらに堅固な石垣が築かれました。
また、城下町も発展し、現代に至るまでその風情を色濃く残しています。飫肥地区は1977年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、江戸時代の町並みや武家屋敷跡が良好に保存されています。
飫肥城は現代においてもその歴史的価値が高く評価され、1978年に大手門が復元されました。さらに、城内には歴史資料館が木造で建設され、飫肥城の歴史を後世に伝えています。しかし、これらの復元は史実通りではなく、考証による形状が採用されています。
飫肥城跡には現在、日南市立飫肥小学校が建てられており、かつての藩校「振徳堂」の歴史も感じることができます。また、最後の藩主である伊東祐帰の邸宅「豫章館」や、日露戦争の講和を主導した小村寿太郎の生家も見どころの一つです。歴史的な建造物が集まるこの地域は、訪れる人々に過去の栄光を伝える重要な場所となっています。
飫肥城は2006年4月6日に「日本100名城」の96番として選定され、その価値が再確認されました。飫肥城の跡地は、宮崎県の観光名所として多くの人々を魅了しており、城下町の美しい町並みや歴史的な建造物が訪れる人々をタイムスリップさせるような感覚を与えます。
飫肥城とその周辺は、九州・沖縄地方で最初の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、地域全体が歴史的価値を持つ場所として保護されています。今後もこの地域の文化遺産としての保存が続けられ、次世代にその魅力が伝えられることでしょう。
飫肥城は、南北朝時代から江戸時代にかけての激しい争奪戦の舞台となり、長い歴史を持つ城です。現在もその跡地には、多くの歴史的な建物や町並みが残されており、訪れる人々に豊かな歴史を感じさせる観光スポットとなっています。飫肥城を訪れることで、古の戦国大名たちの息吹や、江戸時代の城下町の情緒を体験できることでしょう。