飫肥は、宮崎県日南市に位置する歴史的な地区であり、「九州の小京都」として多くの観光客に愛されています。この地域は江戸時代の城下町の風情を今に残しており、その美しい町並みは重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
飫肥は、宮崎県南部の日南市に位置し、かつては那珂郡飫肥村として知られていました。この地域は、飫肥城を中心とする旧城下町であり、江戸時代から続く歴史的な風致と美しい地割が現在も多く残っています。そのため、1977年に九州で最初の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、今も多くの観光客が訪れる観光名所となっています。
飫肥は、平安時代に開拓された藤原荘園を起源とし、油津港や外之浦港に繋がる海上交通の要所として栄えました。飫肥城は、この地域の北側に位置する丘陵を利用して築かれた城であり、その始まりは不明確ですが、一説によると飫肥院がその原型とされています。飫肥城の周囲は酒谷川に囲まれ、天然の要害としての役割を果たしていました。
室町時代末期には、伊東氏と島津氏による飫肥の争奪戦が約100年間続きましたが、1587年の九州征伐後、豊臣秀吉の命により伊東祐兵が飫肥城主に封ぜられ、以降、飫肥藩は伊東氏の支配下で栄えました。1871年の廃藩置県までの約280年間、飫肥は伊東氏の城下町としてその歴史を紡いできました。
飫肥城は、自然の地形をそのまま活かした中世城郭でしたが、1684年の大地震で大きな被害を受けました。その後、貞享年間にかけて大規模な改修が行われ、現在見られる塁壁や石垣が整備された近世城郭へと姿を変えました。
飫肥藩は広大な山地と長い海岸線を持ちながらも、平地が少なく農産物の生産は低調でした。しかし、この地域では山林資源が豊富であり、特に「飫肥杉」が藩の財政を支える重要な資源となりました。飫肥杉は成長が早く、軽量で弾力性に富んでいたため、船材として全国的に知られるようになり、藩の経済に大きく寄与しました。
1974年に始まった飫肥城の復元事業は、飫肥の観光価値を高めるために行われました。この事業により、1976年に藩校「振徳堂」の改修、1978年に大手門の復元、さらに松尾ノ丸の建設が進められました。これらの復元には総額5億1800万円が費やされ、そのうちの一部は市民や地元企業からの寄付で賄われました。
飫肥藩初代藩主の伊東祐兵は、城下町の建設に力を注ぎました。城下町は碁盤の目状に整備され、城の南方へ広がり、江戸時代の風情を今に伝えています。家臣たちは格式に応じて配置され、飫肥杉や飫肥石を用いた建築物が特徴的です。また、城下町には石垣や生垣が多く残っており、江戸時代初期の街路幅がそのまま保たれているのも特徴です。
飫肥の武家屋敷は格式に応じた門を構え、飫肥杉や飫肥石を利用した建築物が並んでいます。特に飫肥石は加工しやすく、石垣や墓石にも多用されており、その質感が歴史的な風情をさらに高めています。現在も多くの武家屋敷が残り、その美しい街並みは訪れる人々を魅了します。
飫肥城下町には数多くの観光スポットが点在しています。特に飫肥城跡や武家屋敷群は、歴史を感じながら散策できる人気のエリアです。また、飫肥城跡の大手門や松尾ノ丸、振徳堂など、復元された建物も見どころの一つです。
飫肥城は、伊東氏が支配していた飫肥藩の象徴であり、歴史的な城跡です。現在は観光名所となっており、城下町の景観とともに多くの観光客に親しまれています。
豫章館は、藩主・伊東祐帰が藩知事に任命された際に城内から移り住んだ屋敷です。歴史的な建造物として保存されており、当時の建築様式や生活様式を垣間見ることができます。
振徳堂は、飫肥藩の藩校として天保2年(1831年)に建てられました。ここでは明治時代に活躍した外交官・小村寿太郎や、西南戦争で戦死した小倉処平など、多くの偉人が学びました。1976年に修復され、現在もその姿をとどめています。
この屋敷は上級藩士である伊東伝左衛門の家で、十文字地区に位置しています。周囲を囲む飫肥石の石垣や生垣は、飫肥藩武家屋敷の特徴的な造りを伝え、上級藩士の庭園様式をよく示しています。
明治時代に豪商であった山本猪平が建てた屋敷です。小村寿太郎の生家が没落した際に、その土地を購入し自宅を新築しました。1929年に増築されましたが、建築当初の姿がよく保存されています。
小村寿太郎は、1905年にポーツマス条約に調印したことで有名な外交官です。彼の生家は、歴史的な建造物として保存され、彼の功績を伝えています。
この研究所は、世界で唯一の苔専門の研究所であり、国の登録有形文化財にも指定されています。1945年に建設され、平屋建の洋館と2階建の和館から構成されています。
1993年、小村寿太郎の没後80年を記念して設立された記念館です。2022年にリニューアルオープンし、彼の功績や歴史を伝える展示が行われています。
高橋家住宅は、城下町の本町通りに位置し、国の登録有形文化財に指定されています。高橋源次郎は地元資産家の婿であり、貴族院議員や宮崎農工銀行の頭取などを歴任しました。現在は、飫肥城由緒施設として一般公開されています。
この資料館は、江戸時代に山林王として知られた山本五兵衛が建てた商家です。当時の商家や商人たちが使用していた道具が展示されており、飫肥の歴史と商業文化を伝えています。
田ノ上八幡神社は、1110年に創建され、飫肥藩初代藩主・伊東祐兵が飫肥城の鬼門を守るために遷座した神社です。11月には、弥五郎人形行事が行われ、国の選定無形民俗文化財に指定されています。
1936年に建てられた旧飯田医院は、アメリカで発達し大正時代に日本で流行したスティック様式を採用した洋館です。飫肥地区を代表する建築物であり、その洋館は現在も保存されています。
五百禩神社は、国の登録有形文化財に指定されています。かつては伊東家の菩提寺であった報恩寺が廃仏毀釈により廃され、その跡地に同神社が建立されました。境内には飫肥藩の歴代藩主や家臣たちの墓があり、歴史的価値が高い場所です。
願成就寺は、飫肥城の鬼門を守るために創建された寺院です。藩主・伊東祐相によって天保3年(1832年)に再建され、現在も飫肥杉の巨木を使用した本堂や、武家屋敷の薬医門を移築した山門が残っています。
日南市内には他にも多くの観光名所があり、その一つが日南海岸国定公園です。この地域は昭和30年代から40年代にかけて新婚旅行ブームの舞台となり、多くの観光客が訪れました。飫肥城の復元事業は、このブームの中で進められ、地域の観光振興に大きく貢献しました。
飫肥には多くの国の登録有形文化財があります。服部植物研究所や五百禩神社、高橋家住宅などはその代表例です。これらの文化財は、地域の歴史や文化を後世に伝える貴重な存在となっています。
飫肥は、1977年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。この選定は、地方における小規模な城下町の典型例として、その歴史的な風致が高く評価されたためです。保存地区内には、江戸時代から続く建物や地割が多く残されており、今もその旧態をよく保っています。
飫肥は、その歴史的な城下町と美しい自然環境が織りなす魅力的な観光地です。江戸時代から続く町並みや、飫肥杉などの自然資源を活かした伝統産業が今も息づいており、訪れる人々に深い歴史を感じさせます。宮崎県を訪れた際には、ぜひ飫肥を散策し、その魅力を体感してみてはいかがでしょうか。