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宗麟原供養塔

(そうりんばる くようとう)

宗麟原供養塔は、宮崎県児湯郡川南町に位置する歴史的な供養塔です。この供養塔は、昭和8年(1933年)に国の史跡に指定され、九州の歴史に深い関連を持つ場所として知られています。特に、耳川の戦いとしても知られる「高城合戦」における戦没者を供養するために建立された重要な史跡です。

宗麟原供養塔の歴史

高城合戦と供養塔の建立

宗麟原供養塔は、天正6年(1578年)11月12日に行われた九州争覇戦、「高城合戦(耳川の戦い)」の戦没者を供養するために建立されました。この戦いでは、島津氏と大友氏が激しく戦い、多くの犠牲者を出しましたが、敵味方の区別なくすべての戦死者を供養するために六地蔵塔が建てられたのです。供養塔の建立年月日は天正13年(1585年)2月の彼岸であり、その費用は全て山田有信が負担したとされています。

供養塔の素材と特徴

供養塔は、宮崎県清武産の硬質な凝灰岩で作られています。この岩石は非常に硬く、長期間風化に耐えることができる素材です。しかし、明治時代の廃仏毀釈運動の影響で供養塔は破壊され、地元の谷「地蔵谷」の底に捨てられました。地域の伝承によると、大正時代に地元住民によって現在の位置に戻されたとされていますが、その詳細な記録は残っていません。

供養塔の現状

廃仏毀釈の影響を受け、宗麟原供養塔の六地蔵はすべて工具で損壊されており、小さな損壊では鼻が削ぎ落とされるなどの被害が見られます。さらに、他の部分でも部品の欠損が著しく、現在の供養塔には基壇がなく、蓮弁には大きな破壊痕が残っています。また、六地蔵の下にある高欄も存在せず、最上部の相輪や笠形も本来のものではなく、復元時に間に合わせで載せられたものです。

供養塔の復元作業は大正年間に行われましたが、昭和8年(1933年)に国の史跡として指定された際には、すでに現在のような状態で保存されていました。後に、地蔵谷の圃場整備の際に、元々の笠形と思われる部品が発見されましたが、それは届け出られることなく廃棄されています。

供養塔の背後にある供養塚

宗麟原供養塔の背後には供養塚が存在しており、その広さは80尺四方で、かつては板塀で囲まれていました。また、南側には溝で囲まれた40尺四方の祭場があり、供養のための儀式が行われていたことが確認されています。この供養塚や祭場の表面は、アカホヤと呼ばれる火山灰に覆われていたことが、表土の下に残る火山ガラスの存在から判明しています。

まとめ

宗麟原供養塔は、九州の歴史的な戦いである「高城合戦」の犠牲者を慰霊するために建立された貴重な文化財です。その歴史的な背景や、廃仏毀釈の影響による破壊と復元の過程は、日本の歴史と文化の移り変わりを象徴するものと言えるでしょう。現在、供養塔は損壊を受けていますが、国の史跡として保護されており、地域の歴史や文化を伝える重要な遺産として残されています。

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名称
宗麟原供養塔
(そうりんばる くようとう)

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