住吉神社は、宮崎県宮崎市塩路にある神社で、旧社格は村社です。全国の住吉神社の元宮を称し、それを示す「元」の紋が代々受け継がれています。
住吉神社は、『古事記』や『日本書紀』に記された「伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(檍原)に禊ぎ祓えたまいしに」という伝承に基づいて建立された神社です。境内は広大で、阿波岐原の地を含む敷地を有しており、南には住吉三神の父・イザナギ(伊弉諾、伊邪那岐)神を祀る江田神社があります。祭神の父子関係を含め、両社の結びつきは非常に深いとされています。
この地は古来より住吉三神が誕生した場所とされ、全国の住吉神社の元宮である証として「元」の紋が神殿の屋根や手水舎の屋根に取り付けられています。また、海に近いことから、古代より海の神、航海の安全を守る神として信仰され、さらに疱瘡除けや無病息災の神社としても崇拝されています。
住吉神社の主祭神は、上筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)の住吉三神です。この三神は、イザナギ神が黄泉国から戻り、阿波岐原で禊を行った際に誕生したとされています。
住吉神社の創建は、社伝によると第6代孝安天皇の時代とされ、約2400年の歴史を持つとされています。『古事記』や『日本書紀』に記されているように、イザナギ神が黄泉国から戻り、禊祓を行った地として、阿波岐原が特定されています。その際に誕生した住吉三神を祀るために、この神社が創建されたと伝えられています。
神武天皇は、宮崎神宮の摂社である皇宮屋から東征の際に、住吉三神を奉斎し航海の安全を祈願しました。このことから、住吉神社は神武天皇の時代から存在していた可能性が指摘されています。また、第14代仲哀天皇の皇后・神功皇后が三韓征伐の際に、住吉神社の神威を祈願したとされています。
鎌倉時代初期には、歌人で神道家の卜部兼直が「西のうみ 檍(あおき)ケはらの汐路(しおじ)より あらはれ出てし 住吉の神」と詠み、江戸時代初期には神道家の橘三喜が住吉神社を訪れ、その感想を『諸国一宮巡詣記』に記しています。寛文2年(1662年)の外所地震による大津波で大きな被害を受け、一時社勢が衰退しましたが、近年では再興が進んでいます。
住吉神社の境内には、一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居があり、その奥に拝殿が鎮座しています。また、境内近くには住之江川が流れ、静かな雰囲気を醸し出しています。
住吉神社の名勝としては、本殿東側に位置する梅園や黒松の密集地帯があり、自然豊かな景観を楽しむことができます。さらに、境内には戦没者慰霊碑や「枇榔樹(びろうじゅ)」の石碑が建立されています。
境内には、祖霊社をはじめとする末社も鎮座しています。
住吉神社では、春の社日や元旦に住吉神楽が奉納されます。この神楽は古い歴史を持ち、天保11年に制作された衣装が現在も残されています。また、住吉地区には4つの神楽保存会があり、現在に至るまで神楽を継承しています。さらに、毎年恒例の住吉神社奉納剣道大会も開催されています。
「宮崎県神社誌」に携わった史家の日高祥は、著書『史上最大級の遺跡 日向神話再発見の日録』の中で、住吉三神が古代の日向国で豊富だった褐鉄鉱石の神であると指摘しています。この説によれば、古代日向で盛んだった鉄器の生産を支えたタタラ溶鉱炉との関係も考えられるとしています。
宮崎県宮崎市塩路3082
宮崎交通の19系統 動物園線を利用し、「フェニックス自然動物園」バス停で下車すると、二の鳥居まで徒歩数分です。また、「住吉神社入口」バス停で下車すると、一の鳥居に近い場所に到着します。JR九州日豊本線の日向住吉駅からは、東へ直線で約2kmの距離です。
住吉神社へのアクセスは、かつては住吉村営人車軌道がありました。この軌道は1914年(大正3年)8月1日から1929年(昭和4年)まで存在し、日向住吉駅(当時は次郎ヶ別府駅)から住吉神社までの2.01kmにわたってトロッコ列車が走り、参詣客を運んでいました。