串間神社は、宮崎県串間市に位置する由緒ある神社です。主祭神に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を祀り、さらに12柱の神々が配祀されています。創建の年代は不明ですが、古代からこの地で信仰を集めてきた神社です。
串間神社の創建は明確ではありませんが、主祭神である彦火火出見尊、通称「山幸彦」として知られる神が、かつてこの地を狩場として訪れていたと言われています。その際に仮の宮所を穂槵宮(ほこくのみや)と称し、その後、その地を神聖な場所として祀るようになったと伝えられています。串間市内には「狩集」という地名が残っており、この伝承を裏付けるものです。
神社は14世紀の南北朝時代に、野辺盛房によって再興された後、応仁元年(1467年)には島津氏によってさらに再建されました。また、元亀元年(1570年)には当時の宮司である谷口栄が神道管領長・吉田兼見から神道裁許状を受けるなど、神社の地位が確立されました。江戸時代には高鍋藩の藩主秋月氏からも崇敬を受け、福島地方の総社としての地位を得ました。
串間神社は、かつて「十三所大明神」と呼ばれていました。この名称は、主祭神の彦火火出見尊を含む13柱の神々が祀られていたことに由来します。しかし、明治5年(1872年)に名称が「串間神社」に改められ、現在に至ります。
串間神社の主祭神は彦火火出見尊(山幸彦)です。山幸彦は、日本神話において狩猟を司る神であり、また海神の娘である豊玉姫との結婚でも知られています。その他、以下の12柱の神々が配祀されています。
これらの神々が祀られていることから、かつては「十三所大明神」と呼ばれていたのです。
串間神社は数多くの文化財を有しており、地域の歴史と文化を今に伝えています。以下は、串間市指定の有形文化財です。
串間神社の古額は、串間市指定の有形文化財です。所在地は北方下池(串間神社)で、1978年(昭和53年)2月3日に指定を受けました。高鍋藩の家老である隈江五郎左ヱ門が、宝永元年(1704年)から享保4年(1719年)にかけて達成した業績が記されています。
串間神社に保管されている神楽面は、10面存在し、これも串間市の有形文化財として指定されています。古いものでは文明11年(1479年)の銘があり、神社で行われる神舞祭で使用されていました。現在は旧吉松家住宅に展示されています。
串間神社の境内には、以下の天然記念物が指定されています。
串間神社の境内面積は約3,056坪あり、広々とした敷地が広がっています。毎年、五穀豊穣と家内安全を祈願するための種子まき神事が行われており、地元の農業と深く結びついた神社です。
串間神社では、一年を通じて様々な祭事が行われています。特に有名なものを以下に紹介します。
歳旦祭は、1月1日に行われる新年を祝う祭事です。新たな年の始まりを神前で祈願する厳かな儀式です。
祈年祭は、毎年2月19日と20日に行われる春祭りで、五穀豊穣を祈る祭りです。この際に行われる「ねたろう祭」は、豊玉姫が彦火火出見尊に会うために串間神社に戻る儀式です。この祭りは、古代の神話に基づく夫婦の再会と農業の繁栄を願う儀式として、地元で大切にされています。
夏越大祓は、6月30日に行われる厄払いの祭事です。参拝者が半年の罪や穢れを祓い、残りの半年を清らかに過ごすために行われます。
例祭は、毎年11月13日と14日に行われる祭りで、神社の最も重要な祭事のひとつです。新嘗祭(にいなめさい)は11月23日に行われ、収穫に感謝する儀式です。五穀豊穣を祝うこの祭りは、神社と農業が深く結びついていることを象徴しています。
串間神社では、毎月1日に月次祭が行われ、また12月31日には年越大祓が執り行われます。これらの祭事を通じて、地域の信仰が脈々と受け継がれているのです。
串間神社は、古代から続く深い歴史と豊かな文化財に恵まれた神社です。主祭神の彦火火出見尊を中心とした13柱の神々が祀られ、地元の人々にとって重要な信仰の場として尊ばれています。歴史ある祭事や豊かな自然環境の中で、訪れる人々は神聖な雰囲気に包まれ、心を洗われることでしょう。