高鍋城は、宮崎県児湯郡高鍋町にあった日本の城で、平山城に分類されます。その別名は「舞鶴城」、また旧名は「財部城」(たからべじょう)と呼ばれました。この城は、かつて「伊東四十八城」の一つとして知られ、江戸時代には高鍋藩の藩庁として重要な役割を果たしていました。城跡は1939年(昭和14年)に国の風致地区に指定され、さらに1977年(昭和52年)には高鍋町の指定史跡となり、1983年(昭和58年)には「日向百景」の一つに選ばれています。現在では、城跡は舞鶴公園として整備され、多くの観光客が訪れる歴史的なスポットとなっています。
現在の高鍋城の縄張りが確立されたのは、慶長12年(1607年)とされています。城は山の東側に位置し、大手門から三の丸を経て、岩坂門をくぐり二の丸へと続きます。その後、石段を昇り長峰門をくぐると、山の中腹に本丸と本丸御殿がありました。特筆すべきは、本丸周囲の堀で、県内で唯一水が張られている堀として知られています。また、本丸のさらに上にあたる詰の丸には、天守に相当する三階櫓が建てられていたものの、江戸時代中期には取り壊されたとされています。
三階櫓の推定地においては、これまでに発掘調査が行われ、礎石や石列などの遺構が発見されていますが、櫓の存在を確定する決定的な遺物は発見されていません。しかし、この調査によって、高鍋城の歴史や構造に対する理解がさらに深まってきています。
高鍋城は、元々「財部城」として知られ、平安時代末期に宇佐八幡宮の神官の一族である土持氏によって築かれたとされています。土持氏はこの地域で勢力を誇っていましたが、戦国時代に入ると、日向国に勢力を伸ばしてきた伊東氏の支配下に置かれることとなります。
長禄元年(1457年)、都於郡城主であった伊東祐堯が大軍を率いて財部城を攻撃し、土持景綱の軍は敗退。これにより、財部城は伊東氏の支配下に入りました。その後、城は落合民部少輔によって代々治められることとなりました。
天正3年(1575年)には、落合民部少輔の子である落合丹後守らが、伊東氏内部の権力争いに巻き込まれ、反乱を起こします。この事件により、落合民部少輔は伊東氏を裏切り、島津氏へと寝返ります。その結果、財部城は島津氏の領地となり、川上忠智が城主として任命されました。
その後、豊臣秀吉による九州征伐の後、秋月種実が高鍋城の城主となり、彼の子孫が幕末までこの城を治めました。秋月氏は財部城を改修し、慶長12年(1607年)には三階櫓をはじめとする多くの建物を建設しました。この時期に、城の名前が「高鍋城」に改められました。
明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い、高鍋城の本丸に高鍋県の県庁が設置されました。しかし、その後、美々津県との統合が進み、さらに宮崎県へと吸収される中で、城の建物はすべて払い下げられ、撤去されました。現在では城跡のみが残り、舞鶴公園として整備されており、地域の歴史や自然を感じることができる場所として親しまれています。
高鍋城は、城跡として国の風致地区に指定されるなど、地域の歴史的な価値を今に伝えています。また、城跡周辺には、かつての城の姿をしのばせる遺構が残されており、訪れる人々に当時の歴史や文化を伝えています。舞鶴公園として整備された現在の高鍋城跡は、桜の名所としても有名であり、春には多くの花見客が訪れる人気のスポットです。
高鍋城は、その歴史的な背景や、城跡としての価値において非常に重要な場所です。平安時代から続く長い歴史の中で、多くの人物や出来事がこの城を巡って繰り広げられました。現在では、歴史の面影を感じながら、地域の自然や文化を楽しむことができる場所として、多くの人々に親しまれています。高鍋城の訪問を通じて、日本の城郭文化や地域の歴史に触れてみるのも、素晴らしい体験となることでしょう。