延岡城は、宮崎県延岡市本小路にかつて存在した歴史ある城です。別名「亀井城(かめいじょう)」とも呼ばれており、その起源や役割は古代から続いています。元々は「縣城(あがたじょう)」と称されていましたが、後に延岡城と改称されました。この城は、高橋元種によって築かれ、後に縣藩、さらには延岡藩の政庁として機能しました。今回は、延岡城の歴史や特徴について詳しくご紹介いたします。
延岡城は、江戸時代初期に築かれた平山城で、高橋元種が1601年に築城を開始し、1603年に完成しました。当初「縣城」と呼ばれましたが、後に「延岡城」に改称されました。この城は臼杵郡地域の拠点であり、延岡藩の政治の中心地として重要な役割を果たしました。
延岡城には「千人殺し」と呼ばれる特徴的な石垣があり、この石を外すと城が一気に崩れ、一度に千人もの敵兵を討つことができると言われています。また、城内の天主台跡には鐘付き堂があり、現在でも1日に6回、延岡市民に時刻を告げています。この鐘の音は歌人・若山牧水もその詩に詠んでいます。
さらに、延岡城は2017年4月6日に続日本100名城(195番)に選定され、歴史的価値が再確認されています。
延岡城は、高橋元種が1601年に築城を開始し、1603年に完成しました。城は五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた中州に築かれ、中心には延岡山(現在の城山)という独立した丘陵がありました。縄張りは神田壱岐守によるものとされています。また、松尾城からの移徙や神事能の奉納が行われ、城下町の発展も始まりました。
城は本城と西の丸の2郭から構成されており、五ヶ瀬川と大瀬川を天然の外堀として活用し、城山の周辺には内堀と石垣が築かれました。本城は本丸、二の丸、三の丸の3つの区画から成り立っていました。
高橋元種は、延岡城の築城と同時に城下町の整備にも着手しました。延岡の城下町は、侍屋敷(本小路、北小路、桜小路、天神小路など)の整備が進められ、また、南町、中町、北町といった城下の町も整備されました。商人も全国から招かれ、越中屋、大坂屋、大和屋、石見屋、志摩屋などの商店が立ち並び、経済が発展しました。
さらに、元種は豊後大友氏による土持氏攻めで焼失した神社仏閣の再建も行い、地域の信仰や文化の復興に努めました。例えば、妙専寺は元種の母の菩提寺として建てられ、延岡の信仰の中心として機能しました。
高橋元種が城主を務めた後、有馬康純が延岡城を統治し、その38年間の治世で城下町の基礎が固められました。有馬康純の時代には、縣城(延岡城)の修復が行われ、1655年には城の再建が完了しました。
修復作業には、多くの人々が動員され、大工や鍛冶職人、さらには各村からの人足も加わり、数年にわたる大規模な作業が進められました。この時期に築かれた三階櫓は、後に延岡城の象徴的な建造物となりましたが、1683年に焼失し、再建されることはありませんでした。
延岡城は、明治維新後の1870年に廃城となりました。その後、西ノ丸は内藤氏の私有地となり、1881年には延岡市に寄贈され、内藤記念館として利用されました。しかし、1945年の太平洋戦争の空襲によって焼失し、その後再建されることはありませんでした。
さらに、平成29年には、福井県坂井市で延岡城の木図が見つかり、坂井市に寄贈されています。この発見により、延岡城の歴史が再び注目されるようになりました。
現在、延岡城跡は歴史的な観光スポットとして多くの人々が訪れています。天主台跡からは延岡市内を一望でき、鐘の音が響く風景は訪れる人々に感慨深い印象を与えます。城の歴史に触れながら、当時の武士たちが見た景色を感じることができるでしょう。
延岡城は、宮崎県の歴史的な遺産であり、江戸時代を通じて延岡藩の中心地として栄えました。現在もその歴史的価値は広く認識され、城跡は訪れる人々に歴史の魅力を伝え続けています。延岡城の壮大な歴史に触れ、その魅力を感じてみてはいかがでしょうか。