椎葉村は、宮崎県東臼杵郡に位置する村で、九州山地中央部に広がる雄大な自然が魅力です。その歴史は古く、平家の落人伝説をはじめ、数多くの史実が伝えられています。
椎葉村は宮崎県の北部、九州山地中央部に位置し、村としては全国で5番目に広い面積を持ちます。北西部には国見岳があり、標高1000mから1700m級の山々に囲まれています。これらの山々の間を縫うように、耳川をはじめとする幾筋もの河川が流れ、村域の大部分は耳川源流域に属します。一方、村の南部は一ツ瀬川や小丸川の源流域にもまたがっています。
険しい地形が特徴で、可住地面積は村域のわずか4%に過ぎません。川沿いや山の中腹の緩斜面に集落が点在し、自然の中で人々が暮らしています。村中心部の上椎葉地区には、日本初の大規模アーチダムである上椎葉ダムがあり、日向椎葉湖がその水を湛えています。
標高が高いため、九州南部としては冷涼な気候です。上椎葉アメダスの年降水量は約2800mmに達し、多雨の地域としても知られています。特に夏から秋にかけては台風の影響で大雨になることがあり、冬季には朝晩の気温が氷点下になることも少なくありません。村域の多くが九州中央山地国定公園に指定され、自然の豊かさが保たれています。
椎葉村には、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が落ち延びたという伝承があります。1191年(建久2年)、追討のため那須大八郎宗久がこの地に下向しましたが、平氏の再興が見込めないと判断し、追討を取りやめ帰国。その滞在中に宗久の娘を妊娠した侍女の鶴富が、後に婿を迎え入れ「那須下野守」と名乗るようになったと言われています。また、村の名前「椎葉」は、宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていたことに由来しています。
戦国時代には那須氏が椎葉村を支配していました。1559年(永禄2年)には獺野原の戦いに出兵し、大河内城主の那須兵部大輔武宗などが戦死しました。また、1577年(天正5年)には島津氏の侵略を受けた伊東義祐がこの地に立ち寄り、城主に伊東氏の累代の系図と旗を預けたとされています。さらに、1585年(天正13年)には小崎城主が島津氏から本領安堵を受け、鷹の儀で扶持を与えられたという記録もあります。
1601年(慶長6年)、椎葉山三人衆は徳川家康から鷹巣山の管理を認められる朱印状を与えられましたが、1616年(元和2年)には内部対立が激化し、十二人衆が向山城を攻めるという事件が発生。これが椎葉山騒動と呼ばれ、幕府の介入により収束しました。その後、椎葉村は天領となり、阿蘇大宮司や人吉藩の預かり地として治められることになりました。
日本民俗学の先駆者である柳田國男は、椎葉村でのフィールドワークを基に『後狩詞記』(明治42年、1909年)を著しました。この研究には、当時の椎葉村長中瀬淳の協力が大きく寄与しています。
1873年(明治6年)、椎葉山中84か村が合併し、向山村(のち不土野村)・大河内村・松尾村・下福良村が発足しました。その後、1889年(明治22年)にはこれらの村が合併して椎葉村が誕生しました。1933年(昭和8年)には富高(日向市街地)と椎葉村を結ぶ県道が開通し、交通の便が大きく改善されました。
1998年(平成10年)には十根川地区が重要伝統的建造物群保存地区として選定され、2010年(平成22年)には熊本県水上村との境界が確定しました。これにより、椎葉村の面積は1.15平方キロメートル増加しました。2012年(平成24年)には村役場の新庁舎が竣工し、現在も村の発展が続いています。
椎葉村は、その豊かな自然と独自の文化が魅力です。上椎葉ダムや日向椎葉湖を中心に、自然美あふれる風景が広がり、訪れる人々を魅了しています。また、伝統的な焼畑農業や平家の落人伝説など、歴史と文化を感じることができるスポットも多数あります。
椎葉村は、自然豊かな九州山地の中にあり、歴史と伝統が息づく地域です。訪れるたびに新しい発見がある椎葉村は、観光や文化体験を楽しみたい人にとって理想的な場所です。ぜひ一度、椎葉村の魅力を堪能してみてください。